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璦琿戦史

停戦・虜囚 

 

​停戦命令

独立混成第135旅団は、孫呉に主陣地を置く第123師団の指揮下にあり、軍司令部の命令は、第123師団から旅団に伝達されていましたが、ソ連軍進攻から4日目の8月12日、砲戦が続けられる中、その通信連絡が途絶え、交信が不能となりました。

8月15日正午、旅団副官 森川大尉は、無線室で、通信隊長の小松中尉とともに重大放送を傍受しました。連合国の宣言を受諾するとの詔勅でした。しかし、「停戦ともなれば、当然、軍司令部から連絡があるはず」と考えた旅団長は、軍司令部の停戦命令を受けるまでは断乎戦い続けることを決意します。

翌16日(あるいは17日)に、軍司令部より暗号電報を受信しますが、3通にまたがる電報の、中間の1通がどうしても翻訳できませんでした。前後の内容から停戦の暗号文であるらしいことが推測されましたが、通信隊は、敵の謀略であろうと考えて、旅団長には報告しませんでした。

こうして、璦琿陣地においては、22日にいたるまでソ連軍との激しい攻防戦が続行されることとなりました。

8月22日午後4時半ごろ、激戦が続く璦琿陣地に、陣地表門から「日本軍将校らしい者が白旗を掲げ、ソ連兵とともにやってくる」という報告が入りました。孫呉の野砲隊の中村少尉でした。

旅団司令部に通された中村少尉は、関東軍第4軍の状況報告の後、軍服の裏に縫いつけていた二通の親書――師団命令書と師団長から濵田旅団長に宛てた親書――を取り出し、「軍の命令により、孫呉師団もすでに停戦に応じた。135旅団も速やかに停戦し、損害を少しでも少なくするように」という軍の命令を伝えました。

​ソ連軍との会談と旅団長の覚悟

その後、間もなく、第123師団の参謀二人が、馬に乗って璦琿陣地に到着し、ソ連軍との会談に応じてもらいたいとの伝言を伝えました。この伝言を受け、旅団長の命令により、旅団参謀の須賀田少佐、副官の宮田少尉、通訳の三人が璦琿橋に赴き、ソ連軍の中将以下数名の高官との話し合いに臨みました。

 

ソ連軍の要求は、その日のうちに全員撤去し、陣地を明け渡すことでした。旅団側は、停戦に応じるとしても、挺身隊も出撃中であるため当日中は絶対に無理であること、翌日午後に撤退行動を開始すればそれは停戦を受け入れたということであると解釈してほしい、それまでは休戦されたいという旨を告げて、司令部に戻りました。

報告を受けた旅団長は、その日の夜に大隊長以上を集会させよと命じ、一人、旅団司令部の山頂に向かいました。副官の宮田少尉は旅団長の後を追い、真夏の太陽が沈もうとしている雄大な風景を前に、耳をかすめる流れ弾の音を聞きながら、旅団長の覚悟を聞くこととなりました。

「宮田、俺は明朝6時、割腹して、陛下にお詫びをする。そうすることが、戦死した大勢の部下に対する償いでもあるのだ。このことを家族に伝えよ」

との言葉だけでした。

(旅団長の妻と娘たちは、他の家族と一緒に陣内後方の壕に収容されていました)。

宮田少尉は、

「副官として、閣下のお伴をさせていただきたい。閣下の首をはねて、すぐ、後を追わせてください。」

と嘆願しました。

旅団長は、

「お前は若いから、日本に帰って祖国復興に努力すべきだ。今日一度死んだと思って頑張ってほしい。」

と言って、なかなか聞き入れようとはしませんでしたが、最後にとうとう、

「それほどまでに言うなら、明朝、この俺と一緒に天命に従ってくれ。」

と、許しました。

宮田少尉は、早速下山して、旅団長の妻にそのことを告げました。

「よく分かりましたと主人に申してください」と言い、今までお世話になったお礼を宮田少尉に繰り返し述べた妻のまなざしには、旅団長の後を追って死を覚悟した真剣な表情が読み取れたのでした。

​停戦受諾

その夜、大隊長以上の者、軍医や経理将校が集まって、地下の広い作戦室で、会議が開かれました。ソ連軍が攻撃を停止しているため、戦場は静まりかえっていました。旅団長は、その日にいたるまでの戦況と、その日璦琿橋で行われたソ連軍との会談の結果を説明し、停戦に応ずるか否かを諮りました。

 

停戦をめぐって議論は紛糾し、旅団長は中央の席で、目を閉じて議論を聞いていましたが、須賀田参謀以下、主戦派が多数を占める中、旅団長に次ぐ階級にあった陸軍病院院長の西村中佐は、

「国破れて山河あり、日本民族の滅亡はあり得ない。」

と言って、旅団長の決断を促しました。

旅団長は、部下の全員に礼を述べ、

「全体的な判断から、停戦を受諾し、明日午後から撤退行動を開始する。私は部下を犠牲にした責任に対し、明朝割腹したい。後はそれぞれ、各大隊ごとに統制ある行動をとり、祖国再建のために最善の努力を払ってもらいたい」と発言しました。

号泣する者あり、わめく者あり、雄叫ぶ者あり……。一方、病院長以下、各大隊長は、切腹覚悟の旅団長に対し、その翻意を説得するのに、明け方まで長い時間を要しました。閣下のみ武士道を立て、我々部下がどうなっても良いのか、たとえ、匪賊になっても閣下を中心に満州の山野を駆け巡り、祖国復興の基となるべしとの意見が強く出され、とうとう旅団長も割腹を断念せざるを得なくなったのでした。

翌23日、正午から、撤退行動が開始されました。陣地を出て、所属の隊本部に向かおうとしていた一隊を見送る旅団長の姿が、次のように書きとめられています。

「司令部正面の道端に旅団長浜田少将閣下が、軍刀を片手に右手を少しあげるようにして、うなずきながら見送ってくださった。慈愛深きまなざしであった。すっかり気落ちした兵士の姿を、部下の姿を、どういう気持ちで、道端の少し高い所で、旅団長閣下は見送っていてくださるのであろう。いまもって瞼に焼き付いて忘れることのできない、慈父の姿であった。」

(久江 勇「璦琿陣地機関銃中隊 久江分隊の戦闘日誌」『アムール河畔の英霊に捧ぐ:松風第一二三師団(孫呉)、不朽・独混第一三五旅団(璦琿)戦史』戦史刊行会事務局, 1982年, p.693)

 

午後1時、須賀田参謀と森川副官は、ソ連側指定の公別拉(こうべら)川橋上に赴き、停戦のための交渉に入りました。

午後3時には、黄色の将官旗をつけた自動車で、旅団長と副官の宮田少尉が到着し、ソ連側との停戦交渉は次のとおり定められました。

 一、武器、弾薬の一切を表門付近に集積する。

 二、陣地出発の順序は次のとおりとする。

  ①負傷者及び患者(約400名、トラック使用)

  ②戦死者遺骨及び下士官・兵は部隊順に徒歩行軍、矢崎中尉指揮。

  ③軍家族及び一般邦人(約500名)はトラックを最大限利用し、森川副官責任をもって指揮。

  ④最後に将校は、ソ連側提供のトラックで出発する。

  ⑤経路は、陡溝子 ―― 二站 ―― 孫呉とする。

こうして、ソ連軍の南下を阻止し、「アイグンスキー」と恐れられた独立混成第135旅団はその役割を終え、璦琿の陣地には白旗があげられることとなりました。

​虜囚

8月23日午後4時、独立混成第135旅団は武装を解除し、兵力を孫呉に集結することになりました。旅団長と参謀は直ちに孫呉へ向かって出発し、一般部隊は翌朝孫呉に向けて出発しました。

 

軍家族及び一般邦人は10台余りのトラックをようやく集めて、璦琿陣地を出発したものの、途中の陡溝子陣地でソ連側に停止下車を命じられ、徒歩で璦琿陣地まで逆戻りさせられ、このとき携行していた荷物の大半を捨てざるを得ず、ソ連兵によって奪われる結果となりました。孫呉および璦琿では、ソ連側に対し、執拗な交渉が重ねられ、この人々も、28日には、全員無事に孫呉に到着することができました。

孫呉で、独立混成第135旅団が収容されたのは、営外居住者用官舎の一角でした。三部屋くらいの住宅に二十数名が押し込まれ、家族も一部屋に4~5名ずつが割り当てられました。

兵士には、孫呉に集結した翌日から早速使役が割り当てられ、ソ連軍が入手した軍需物資の貨車積みをさせられました。9月中旬になると、独立混成第135旅団に対して、「作業大隊」の編成が命じられました。

「兵員の鉄道輸送は不可能につき、鉄道、道路、河川等の補修をしながら哈爾濱(はるびん)まで南下する」「強兵を以て編成せよ」とのことでした。この命令を受けて、各部隊に病弱者・高齢者に一部の責任者を残し、千名ずつの作業大隊を三隊編成、9月15日に徒歩で出発しました。シベリアに渡った作業大隊は、途中野宿し、コルホーズ(集団農場)の収穫を手伝いながら、収容先へと旅を続けることとなりました。

この第一陣の出発に続いて、各部隊の残留者によって、二つの大隊が編成されましたが、この第二陣には体の弱い者が多く、過酷な行軍、強制労働、発疹チフスの流行によって健康状態の悪化した病弱者は、満州へ送り返されることとなりました。この中の半数近い人たちは、その後、「黒河事件」に巻き込まれて悲運な最後を遂げることとなったのでした。

作業大隊の編成に加わらなかった将校は「将校大隊」の編成に入り、列車輸送でハバロフスクへ送られ、旅団長は、旅団司令部の兵器主任であった盆子原中尉を伴って、飛行機でハバロフスクに送られました。

また、開戦時、旅団長の決断によって璦琿や朝水の陣地内に収容された軍人軍属の家族(約340名)と一般邦人(約140名)については、停戦交渉の際、旅団長が、停戦の条件として「璦琿における非戦闘員を、無事、哈爾濱(はるびん)に輸送すること」を強く求め、了承されていました。

 

この条件を受け、ソ連軍はこれら非戦闘員に護衛兵をつけ、旅団からは将校1名と兵10名がつき、途中の暴行掠奪を排除し、全員無事に哈爾濱まで誘導しました。その後は、個々の行動に任せられましたが、その多くは無事に祖国の土を踏むことに成功したのでした。

不朽・独立混成第135旅団の使命

旅団副官であった森川大尉の報告によると、8月9日開戦から23日の停戦までの独立混成第135旅団側の損害は、戦死者385名、負傷者370~380名、また一般患者は20~30名であったとされています。

ソ連側の損害は不明ですが、陡溝子陣地正面だけでも、ソ連兵士の遺棄死体は873を数えたという記録が残されています。

ソ連軍の南下を阻止するという使命を課せられて編成された独立混成第135旅団は、軍司令部の命令を無視することによって全員玉砕を回避し、さらには、多くの民間人(朝鮮人を含む)と軍人家族の命をも守り抜くことに成功して、その役割を果たしたと言えるのかもしれません。

 

ソ連軍進攻当時、二站陣地で陣地構築作業にあたっていた天谷小之吉氏は、次のように回想しておられます。

「もし、第四軍司令官の命令に従っていたら、間違いなく玉砕だったろう。[……]。璦琿での戦闘は壮絶であったが、結果として将兵二万七千人(編注:隣接する孫呉の第123師団を含む人数)が生存し、シベリアに送られ、そのうち何人かでも私のように生きて再び祖国の土を踏むことができたのである。

私は浜田旅団長の勇断と実行力に心から感謝したい。あの命令破りがなかったら、もっと多くの同胞の命が失われただろうし、今日の私もあり得なかった。」

            (天谷小之吉『戦時下の惜春――私のシベリア抑留記』新風舎, 1996年, p.81)

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