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璦琿戦史

ソ連軍との戦い 

 

ソ連軍進攻

編成替えのため、一時兵営に帰っていた各部隊は、7月30日、独立混成第135旅団の編成が完結するとともに、旅団の総力をあげ、同年春以来続けられていた二站(にたん)地区の陣地構築と、その補強作業に再び取り掛かりました。二站陣地は、第6国境守備隊当時から、軍命令により、急遽構築を始めた野戦陣地でした。

 

昭和20年8月9日、旅団長 濵田少将は、参謀の須賀田少佐とともに二站地区に滞在していました。

 

留守居役の副官 森川大尉は、江岸監視哨と陣地警備隊長 長屋少尉からほとんど同時に、

「ソ連機越境――孫呉(そんご)方面にむかう」

という電話報告を受けました。朝の7時前のことです。

 

森川副官は急ぎ二站地区へ電話をいれ、旅団長の指示を仰ぎました。

 

濵田旅団長は落ち着いた口調で、

「ソ連軍の進攻と判断する。とりあえず営外者家族全員を自動車で陣内に収容せよ。荷物は将校行李一個に制限すること」、

さらに、

「璦琿駅にまだ残っているはずの砲、弾薬は至急陣内に配給せよ。これが要員は各隊の残留者、当番兵、馬をもってせよ。余はただちに帰還する」という旨の命令指示を与えました。

 

璦琿陣内と梁家屯(りゃんかとん)の歩兵隊兵舎では、「非常呼集!」を告げるラッパの音が、三回、五回と鳴り響きました。

 

当時、他に転用のため、璦琿駅で輸送準備をしていた武器はすべて、ただちに、全力をあげて陣地内に戻され、正午ごろまでには、戦闘準備が整えられました。

璦琿陣地配置図

璦琿陣地配置図

(図をクリックすると右側に拡大図が出ます)

「余は璦琿に戻る」

同時刻ごろ、情報将校を兼ねる旅団司令部の乙副官 宮田少尉は、孫呉の第123師団司令部から、軍の作戦命令を伝える電話を受けました。

 

「独立混成第135旅団は主力をもって二站を、一部をもって璦琿を死守すべし」――それが、軍の命令でした。

 

宮田副官は、〈璦琿には、軍人軍属の家族や数百人の民間人が居るのに、そんな馬鹿な命令が〉と思いながら、二度も聞き返しました。

 

すると、

「命令に誤りはない。命令受領者は誰か」と厳しい反応があり、

宮田副官は、

「はいっ、乙副官の宮田少尉であります」

と言って電話を切りました。

 

この命令を伝えたときの旅団長のギョロリとした大きな目を想像しながら、二站へ電話を入れると、案の定、大声がはねかえってきました。

 

旅団長は、

「命令に間違いがないのか。」

と聞きかえしたうえで、

「そんな馬鹿な命令があるか。よし、わかった。ただちに行動を開始する。余は璦琿に戻る」と言い放ちました。

 

旅団長はすでに覚悟を決めていたのでしょう。長島少佐を長とする部隊の一部を二站に残し、日のあるうちにと主力を引き連れ、白馬の先頭で璦琿陣地に向かいました。

 

9日午前に二站を出発した旅団主力は、40キロの道のりを徒歩で移動し、翌10日の午後になんら妨害を受けることなく璦琿に到着しました。

 

また、旅団主力が去った二站陣地には、北方の山神府に駐屯していた関東軍騎兵下士官候補者隊2個中隊と、独立歩兵大隊798大隊の2個中隊、そして満州国軍1個大隊が加わり、戦力は大きく増強されました。

 

 

旅団長の真意

「独立混成第135旅団は主力をもって二站を、一部をもって璦琿を死守すべし」という軍の作戦命令は、孫呉の第123師団司令部から旅団司令部に伝えられました。

 

第四軍司令官は、璦琿駅に半数近い重砲が残っていたことを知らなかったため、璦琿に主力を置いたとしても、南下を急ぐソ連軍は璦琿陣地を素通りして、二站を容易に突破するであろうと判断し、二站に主力を置くように命じたものと考えられます。

 

これに対し、濵田旅団長が璦琿を主戦場にする方が有利と判断したのは、以下の理由によりました。

 

  • 築城中途の二站地区では、旅団の主力を置くに値しない。

  • 璦琿陣地は永久施設を含め、十分な戦闘訓練が行われていた。

  • 璦琿陣地には半年分以上の食糧と飼料が確保されていた。

  • 仮にソ連軍が素通りできても、その後方を脅かす基地として十分である。

  • 重砲が残っており、その弾薬は全く手をつけていなかった。

  • 制空権がまったくない状況下で家族・民間人を南へ避難させることは困難であったため、堅固な地下施設に収容し、最悪の場合は家族とともに玉砕することを覚悟していたものと推測される。

 

旅団長が軍の作戦命令を無視し、自ら旅団の主力を指揮して璦琿陣地に帰還したことは、陸軍刑法の「抗命の罪」に問われる重大問題を含んでいたと思われます。しかし、これは、日本の敗戦により不問となったのです。

 

 

*陸軍刑法57条によれば、「抗命の罪」(上官の命令に背く罪)は、敵前における場合は最も重く、

 死刑または無期もしくは10年以上の禁錮に処せられると定められています。

民間人の収容

新璦琿の駅近くにある営外居住者用の官舎地帯は、璦琿陣地よりもさらに敵に近い場所でした。旅団長はソ連軍侵攻の場合、制空権がまったくない状況下で家族を列車で南へ脱出させることは、不可能に近いと判断しており、開戦と同時にいち早く陣内収容を命じました。

 

陣内に収容されたのは軍人の家族だけではありません。璦琿に住む一般民間人は、男子は召集され婦女子だけが残っており、それを放置するわけにはいきませんでした。その中には日本人のみならず朝鮮人婦女子も当然含まねばなりません。そのうえ黒河の在留邦人百数十名が最終列車に乗り遅れ、救いを求めてきたのです。その収容作業は困難を極めました。これら非戦闘員の数は400名を超え、陣内では、将校集会所、下士官集会所、警備隊兵舎に分けて収容されました。

 

こうして、陣内に収容された非戦闘員は、旅団長夫人を先頭に一丸となって軍に協力、爆撃、砲撃の合間をぬい将兵に食事を届けましたが、この中で、最も健気に後方勤務に活躍したのは、朝鮮人婦女子であったとも伝えられています。

 

ソ連軍との戦闘

 

8月10日の午後3時ごろ、ソ連軍は江岸の旧璦琿を砲撃、多数の舟艇を使って上陸を開始しました。

 

翌11日の夜明け前には、徹夜で上陸を続けたと思われるソ連軍の大部隊が璦琿街道を新璦琿に向かって進軍、12日午後から、璦琿陣地との砲撃戦が始まりました。

 

ソ連軍の砲撃は日を追うごとに激しさを増し、8月16日午後からは二站地区にも攻撃を開始、独立混成第135旅団は全正面にわたって攻防戦を展開するにいたり、ソ連軍の南下を阻止すべく各陣地で激戦が続くこととなりました。その奮闘ぶりは、ソ連軍兵士たちから「アイグンスキー」と恐れられるほどのものだったのです。

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