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​シベリア抑留

​手記

停戦交渉の後、ハバロフスクに送られた濵田十之助は、その後、将校収容所で5年近い年月を過ごし、昭和25年8月16日に、脳溢血のためこの世を去ることとなりました。この5年間の生活がどのようなものであったか、その記録はほとんど残されていません。

死後、濵田十之助の遺体は、亡くなった他の囚人たちとともに共同で埋葬されたものと思われますが、一緒に収容されていた方がその遺髪と爪を保管し、昭和29年頃、日本に無事帰国されたときに、遺族を探し当て、日本の家族から濵田十之助宛てに届いた1通の書簡とともに届けてくださり、その方のお話から、ありし日の様子をうかがい知るのみであったようです。

その後、40年以上が経過し、サハリン州の州都ユジノサハリンスクにある公文書館に保管されている、戦前から終戦直後に書かれた日本語の資料約2万5千点の中に、濵田十之助が抑留中に書き残した手記が発見されました。

取材のために公文書館を訪れた北海道放送の波多野真義記者が、この手記に目を留め、コピーして日本に持ち帰り、濵田十之助の長男 濵田 豊を探し当てて、この手記のコピーを手渡してくださいました。そのときの取材の様子は、2000年12月8日に北海道放送の夕方のニュース番組の中で、『サハリン公文書館 ある手記より』というタイトルで8分間の特集として放送されることとなりました。

番組の中でも語られている通り、手記には具体的な収容所内での生活の様子は何も書き残されていません。ほとんどが、おそらくは収容所内で閲覧可能であった哲学や宗教の書物からの抜き書きであり、その中に、わずかながら、絵の描き方や、マッサージの仕方などの、イラスト入りの説明が数ページ残されています。

 

いつ、解放されるともしれない極寒の収容所の中で、心に響く言葉を一言一言書き留めながら、折れそうになる心を支えていたのかもしれません。そして、戦争について、また、生きることについて思いめぐらし、戦争中に失った部下や敵方の兵士たちの冥福、日本で帰りを待ちわびている家族の無事を祈りながら、日本に帰還できる日を待っていたのでしょう。

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北海道放送の特集:『サハリン公文書館 ある手記より』

​2000年12月8日 放送

濵田十之助少将の手記のコピー(全63ページ)PDF形式 ファイル

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